新日常への道④ーー育自
私の子育ての原点の一つ、出会えてサイコーに良かった
育児/育自の原点 ・全ての親とかつて子供だった大人へ
原点にして、指標そして祝福
半年ほど前、ある詩と再び巡り会いました
すっかり記憶から薄れていたそれは、カリールジブランの「こどもについて」
友人に、それは1923年に出版されたレバノンの詩人による「預言者」という小さい詩集の一編であることを教えてもらいました
一説には「20世紀のアメリカで聖書の次に売れた本」とも呼ばれているほどのベストセラーです
子育てを始めたばかりの暗中模索の頃、
シュタイナー教育を知り、本を取り寄せて独学で試行錯誤をしていた頃、
子育て、結婚、海外での暮らし、歯がゆい英語での暮らし、
生活の全てが初めてで、精一杯で、余裕がなくて、全てに喜びと困惑を抱いて目眩がしていた頃、
どんなきっかけだったのか忘れましたが、この詩に出会って
強烈な響きを感じて、救われました
「こどもについて」 カリール・ジブラン 『預言者』
あなたのこどもは、あなたの子ではありません絶えることなく続こうとする生命、それが息子や娘になったのです
こどもはあなたを通過する存在であり、あなたから生じた存在ではありません
こどもはあなたと共にいますが、あなたに属しているわけではありません
こどもに愛を与えることはあっても、あなたの考えをおしつけてはなりません
こどもにはこどもの考えがあるからです
こどもの体を家に住まわせることはあっても、こどもの魂までをそうしてはなりません
こどもの魂は未来という家に住むからです
その家をあなたは訪れることはできません。たとえ夢の中であっても
あなたがこどものようになろうとすることはあっても、こどもをあなたのようになるよう強いてはなりません
命は過去にさかのぼることも、留まることもできないからです
あなたは弓です。そこからあなたのこどもが生きた矢となって、解き放たれるのです
神の射手は無限の道の彼方にある的を見
神の力を使ってあなたをしならせるのです
その矢が勢いよく遠くまで飛んで行くように
あなたが射手の手によってしなることを喜びとしなさい
なぜなら、神は飛んでいく矢を愛しているだけでなく
そこに留まっている弓をも愛しているからです
*翻訳は、英写塾さんのブログの翻訳を使用させていただきました。ありがとうございました。
子供は親の所有物ではない
この詩自体、すっかり忘れていたのですが、
それでも、この詩から受けた刺激は、強烈に私の心に刻まれていました
「預かりもの」
どこかで子供たちのことをずっとそんな風に感じていました。
彼らが彼ら自身の人生を、自分で歩み始めるまでの、「預かりもの」その思いはしっかりと残っていました
同時期、シュタイナー教育について学んでいて同じように、
「子供は、自分の内部の力の作用によって ”自己成長” している。けして親が子供を成長させているのではない。親ができることは、子供の自己成長の作用力を損なわないように、環境を整えてあげることだけである。」
という様な内容の文章を読んだ記憶がずっと残っていました。
今その出典元を探して本棚に残る本を何冊か読み直してみましたが、見つけられませんでした。残念
子供たちが安心して過ごせる環境
生活のリズム、四季のリズム、呼吸のリズムが整い
めまぐるしく湧き起こる興味へ、遊びを通して自由に関われる環境
肉体の成長に必要な栄養
お母さんやお父さんの笑顔
そして、喜びは、子供の身体を発達させるための環境です
なので、
環境を整えるといっても、何かを買い与えたり様々な習い事をさせたりというのとはまったく逆を指していて、
ましてや、自分が叶えられなかったことの替わりや
自分の価値範囲の中で、善だと思われるレールを歩かせるものでもない
否定や非難をしているんじゃないんですよ、
個人的には、母の願いや夢を私が替わりに叶えたとき、それを喜ぶ母の笑顔は、やはり素直に嬉しいものです!
(ただ、強制はいけません。辛くなります。)
ジブランの「こどもについて」にもあるように、
私の子供たち、私を通して産まれてきたけど、
愛を与えることはあっても、
例え小さくても子供には子供の意志があって、
子供たちの魂は「未来」という家に住み、私とおなじ家に留めて置くことは不可能
でも、彼らの身体は、
私と共に住んでいる。
その住まいの環境を整えることが、わたしにできること
だからと言って、自由奔放にと放置は違いますし、
それに「甘やかす」と「可愛がる」って違うって感じませんか
私のイメージでは、
「甘やかす」は、転ばないように最善の策を講じて先手先手を打つ
(子供が独立した時、いつまで転ばないように先手を打てるんですか? 自力で立ち上がる方法を身につけなければ、その先が辛いです)
「可愛がる」は、転ばないように気を掛けるけど、転んだ後自分で起き上がれるまで待ってあげて、一緒に傷を手当てし、気持ちを寄り添わせながら一緒に隣を歩いていく
(自分で立ち上がれることを学ぶことは自信を育み一生の宝です。信頼と安心を抱いて仲間と寄り添い生きていけます)
独り立ちするまでは「預かりもの」を可愛がり、時に厳しく手塩にかけ、見守らなければ
そんなことが、とても印象的で、私にはそれが本当だと思え、
そして、かつて私自身も、その 未来の家に住んでいた こども であったと…
私は、神の射手にしぼられる弓
矢を遠くへ力強く射るには、弓を強く引き絞らなくてはなりません
親の 重圧・困惑・迷走・自己嫌悪・反発・抵抗... 半端ありません ( T_T)\(^-^ )
ほとんどの親は、育児の素人ですよねー(幼児教育者にとっても、自分の子供は別で、素人然と聞きます)
それがいきなり新人教育もなく、本番、命を預かるのです。 ←心痛も喜びも半端なく
それは、も〜〜〜ぅ ぎゅうぎゅうに 引き絞られますね
そこで、意識の向きが、育児から、意気地を捨てて育自(自分育て)へ切り替えられたら
きっと、大変なのは替わりなくても、愉しい育児/育自になりますねー
実際、ほんと〜に楽しかった❤️
弓が強く引き絞られるほどに、矢は強く遠くへ飛んで行くのです
私は子供達のために、十分引き絞られたでしょうか!?
兎に角、私の子供達も、無事、射手から放たれました
まだ彼らの的は遠すぎて見えないようです。
かという私も、もうずいぶん前に射手に放たれた矢です。
遠くまで飛行していますが、まだ力強く飛んでいます。
私の的もまだ見えていませんが、
飛んでいる景色を少し眺める余裕が、ちょっとだけ、できた様に思えます、たぶん...
個としての私たちという自由
必死にもがいていた同時期に、アドラー心理学の「課題の分離」にも出会いました
自分の課題と他者の課題とを分離していく
「これは誰の課題なのか?」
子供の問題に目がいくとき、
我が子のために何ができるか、何をしてあげるべきなのかを考えました
でも、それは、 「誰の課題なのか?」と問うとき、
大概、というか、全て私の課題でした。
そして、子供達を合せ鏡として、育児はいつしか育自となり、
重圧やしがらみも弱まり、私は私の課題に取り組むことで自由になっていきました
子供たちが14歳を過ぎたころ、
「子供たちの課題」を、私の課題と混同しないように気をつけました
これからの不透明な時代、自分の課題 に取り組む姿勢が益々着目されるのではないでしょうか!
育児は終わっても、育自は生涯続行中
だれにとっても、かつてのレールは壊されています
これからは、自分の道を創っていける力が必要です
個としてそれぞれが自分の課題に取り組み、互いが共生共栄していけるように